冒頭のページに若い男性の肖像が描かれています。この物語の主人公、佐藤義詮先生です。
学校法人別府大学の歴史は、明治41年に豊州女学校が開設されたときに始まります。佐藤義詮先生は、この豊州女学校の経営を、中学時代の恩師から昭和11年に引き継ぎ、これを母体に戦後別府大学を創設し、現在の学園の発展の礎を築かれました。
昭和25年に創設された別府大学は、大分県で初めての私立大学であり、九州で最も長い歴史と伝統を持つ私立大学の一つなのです。
それにしても、なぜ、戦後の新制大学制度が発足してまだ2年目という早い時期に、大分県別府市という地方都市に大学が設置できたのでしょうか。そこには、自由主義教育を地方都市で実現したいと挑戦し続けた佐藤義詮先生の教育と学問にかける夢がありました。
佐藤義詮先生は、明治39年に大分県に生まれ、県立の旧制竹田中学を経て、昭和3年に東京御茶ノ水にある文化学院大学部を卒業しました。
文化学院は、大正デモクラシー期の代表的な文化人・教育者である西村伊作氏が設置した私立学校で、大正から昭和初期にかけての自由教育運動の中で独自の輝きを放っていました。教員には与謝野晶子、与謝野鉄幹、石井柏亭など一流の芸術家や学者が名を連ね、文学や歴史、芸術など非常に高いレベルの講義が講じられていました。しかし、制度上は中学や大学ではなく、各種学校という位置づけでした。理想の教育を自由に追究するため、あえて既成の教育の枠組を避けたといわれています。学園は「小さくて善いものを」という西村伊作氏の考えに基づき、小規模で家庭的な雰囲気に満ちていました。
佐藤先生は、当時まだ僻遠の地であった大分から上京し、文化学院の自由な空気の中で、一流の文化人に接し、芸術や文学に理想の翼を広げてゆきます。
詩人でもあった先生は、学生時代に詩集「空気の心臓」や英文詩集「ホワイト・ナイト」を出し、その後も学術書「希臘古代詩序説」などを出版されています。
さて、西村伊作氏は、地方出身の学生に対し、各々の郷里に文化学院のような自由な校風の教育施設を作ることを勧めたと言われています。若き佐藤先生は、恩師の言葉を心にとどめ、故郷大分に文化学院にならった自由主義的な学校を創設する夢を描きます。
佐藤先生は、文化学院を卒業後大分に帰り、前述したとおり、中学時代の恩師今村孝次先生の導きを得て、昭和11年に豊州女学校の経営を引き継ぎます。豊州女学校は、大分高等女学校の教師だった小野由之丞先生が明治41年に大分市に設立した女学校で、小野先生の後は、巌常円先生、今村孝次先生が校主を引き継いでいました。昭和11年に今村先生から豊州女学校の校主を引き継いだ佐藤先生は、昭和14年に豊州女学校を高等女学校に昇格させます。また、学校経営の傍ら、ギリシア古代詩や三浦梅園を研究し、大分の文化人との交流を深めていきます。しかし、思い描いていた自由な教育活動や言論は戦時下のなかで実現できませんでした。
戦前に自由主義的教育への夢を封じられていた佐藤先生は、戦後堰を切ったように積極的な教育活動を展開します。昭和21年5月には豊州高等女学校の専門部を母体に別府女学院(別府女子専門学校)を開校します。建学の精神「真理はわれらを自由にする(VERITAS LIBERAT)」は、このときの開校式で佐藤先生が語った言葉です。思想や学問の自由が封じられた戦前のような時代が二度と来ないよう、真理を希求し自由を愛する自立した若者を育てたい。建学の精神には、そのような願いが込められています。
昭和25年には、新制の大学制度の発足とともに、女子専門学校を大学に昇格させます。文学部のみ、学科は国文科と英文科だけという、まことに小さな別府女子大学の誕生でした。
しかし地方都市での大学経営は順調とは言い難いものでした。資金が足りず、給与はしばしば遅れたといいます。教室も十分ではなく、近くの寺を借りて授業をすることもありました。しかし、不思議と優秀な教師が佐藤先生のもとに集まります。講義も西洋古典文学やギリシア・ラテン語が講じられるなど非常に高度なものでした。施設も資金も不足していましたが、教師たちは佐藤先生の信念に共鳴し、先生を支えました。森と田園につつまれた小さな校舎は、大学を創りあげる活気に溢れ、学生も教師も自由に学べる喜びに満ちていました。そこには確かに恩師・西村伊作氏の言葉「小さくて善いもの」が生まれ、自由主義的な教育を地方都市で実現したいという佐藤先生の永年の夢が実現していたのです。
佐藤先生には、文学や芸術、歴史の教育研究を通じて「真理を愛し、自由を尊ぶ、真の教養ある人間を育てる」という考えが基本にありました。大学のタイプは、文化学院を想起させるリベラルアーツ型の教養大学です。先生は、たとえ経営が苦しくともこの路線を崩しませんでした。
その後、本学は昭和29年に別府大学と名称を改め、男女共学となります。昭和30年代に入ると経営も徐々に安定し、昭和38年に史学科、昭和48年には九州で唯一の美学美術史学科を設置しました。そして、昭和62年に80歳で亡くなるまで、地方都市にありながらも文学部単科大学を貫き通したのです。
さらに佐藤先生は、地域の人材養成の期待に応えるため、4年制大学以外にも夢を広げていきます。まず昭和29年には大学に短期大学部を併設しました。実学の社会的ニーズに応えつつ、本学ならではの教養教育を施す別府大学短期大学部の誕生です。
大学以外では、戦後間もなく、豊州高等女学校を母体として大分市に大分女子高等学校を設置し、昭和25年には別府市に移転して男女共学の自由ヶ丘高等学校とします。この自由ヶ丘高等学校が、昭和33年に別府大学附属高等学校となり、さらに平成11年にはカトリック修道会の経営する明星中学校・高等学校と合併して、現在の明豊中学・高等学校が生まれました。つまり、明豊高等学校も大学・短大と同じように豊州高等女学校を母体としているのです。
また、昭和36年には上人ケ浜の松林の中に附属幼稚園を開設し、昭和45年には附属看護専門学校を設置します。平成11年には明星幼稚園と明星小学校を学園に加え、平成16年に境川保育園、平成19年に春木保育園、大分香りの博物館を設置して、現在の学園の姿が形成されていきました。
現在、学校法人別府大学は、別府大学、別府大学大学院、別府大学短期大学部、明豊高等学校、明豊中学校、明星小学校、附属幼稚園、明星幼稚園、附属看護専門学校、境川保育園、春木保育園、大分香りの博物館を擁する総合学園となりました。
多難な時代に学問と教育に理想の火を燈し続けた佐藤義詮先生。苦しい時代も佐藤先生を支えつづけた志ある教員たち。現代は、人文学の価値が軽視される傾向にあります。しかし、文学や歴史、芸術には人間を深く耕す大きな働きがあり、その存在価値は成熟した社会に欠かせないものであると私達は考えています。学校法人別府大学は、建学の精神「真理はわれらを自由にする」のもと、「真理を求め自由を愛する、真の教養ある人間を育てる」という教育理念を掲げ、そして今自由主義教育を地方小都市で実現しようとした佐藤先生の夢と情熱を受け継ぎ、挑戦を続けているのです。
世間に知られることを考えないで、
自分の一生を尽くすことをこれこそ自由な人間の理想とする。
大学は教授、学生をも含めた学問研究の共同体である。
大学を支配しているものは、学問であって、政治ではない。
大宅壮一氏が昔訪ねてきて「ミニチュア大学」と週刊誌に書いたほど、
別府大学は小さな大学である。
憲法の条文を覚えているよりも、
日常生活で人間を尊重出来ることの方が
より憲法的である。
私が興味を持って勉強したのはギリシアの学問である。そして西洋の古典についての勉強を通して身についた考えを、若い人たちに伝えてみたいという気持ちが、学校を創るときにあった。学則は他の大学の例に倣ったが、建学の精神は私の考えで決めた。
大学を一つの単純な共同体として考えるとすれば各人が専攻している学問に対する研究の意欲が、大学の価値を決定するであろう。さらに、このことは私の大学の建学の精神としている「真理はわれらを自由にする」ことに出発する。
誰も祈り、誰も自由に考える。僧院のように静かな学園であることもいい。
知識への愛が、その人々に生きる道を教える。
学園はそのための、哲学の広場である。
自由は人間性の尊重であり、真理の探究は学問の最終目標でなければならない。その具体的方法は、あるいははなはだ困難であるが、困難であることによって、大学教育の価値もまた高められるであろう。
戦後の混乱というものは今の学生の想像を絶するものであると思うが、戦後の日本再建の目標は文化国家として再スタートということであった。それは苦しかった戦争に対する反動であったかもしれないが、その言葉以外に日本人全体が救いを見出すことができなかったのである。焦土のなかでの文化という叫びは寧ろ祈りであったであろう。この学園は、こういういわば戦火の中に誕生した。